思考の墓場 サルガッソー

思考は宇宙気流に乗り、移動性ブラックホール「サルガッソー」へと流れ込む。

宗教に見る性の変遷 ~最終回 現代に続く性風俗の系譜②~

 今回こそ最終回です。ほぼ私見で埋められていますが、最後までお付き合い頂けたら幸いです。

宗教に見る性の変遷 ~第1回 古代蛇信仰と性~
宗教に見る性の変遷 ~第2回 古代美術と性①~
宗教に見る性の変遷 ~第3回 古代美術と性②~
宗教に見る性の変遷 ~第4回 現代に続く性風俗の系譜①~


前回のあらすじ

 「おそくづ」から発展した春画は娯楽用品であるとともに、性の手引書としての役割も担っていた。性の技巧を習得することは夫婦生活を円満にするだけでなく、とりわけ男性にとっては一種のステータスであったのではないかと推測される。では、その身につけた技はどこで活かされていたのだろうか?


遊里の隆盛と性風俗の取締

 浮世絵の進化を促した元禄文化は、江戸時代から始まった遊里の影響を強く受けているものであった。江戸時代に発展した吉原遊廓は幕府公認の遊廓で、その発展の背景には当時の身分制度である“士農工商”が大いに絡んでくる。商業が盛んになり莫大な富を築くことができた商人たちは、その身分が武士よりも低いという理由から政治の場に出ることができなかった。彼らはその鬱憤を遊廓という場で発散するしかなかったのだ。このように発展した遊里の文化は浮世絵や歌舞伎、浄瑠璃、浮世草子などのメディアを媒介に社会全体に広まっていった。これについて原は次のように述べている。

 好色文学と歌舞伎と浮世絵が、遊里から社会の表面に浮びでて、経済力を商人が握ってしまうと、武士の実力はどんどん下落してゆく。大名はお金御用達に押えられ、旗本や御家人は、蔵前の札差に金を融通して貰っているので頭が上がらなくなる。武士までが遊廓に出入りするのを名誉とし、大名でも廓通いをするものができてきた。花魁は時代の寵児で、「武士たるものを背中にてあいしろい」と、裏面はともかく表面ではスターである。何事も飲ませる抱かせる主義が出世の捷径で、賄賂は公然の秘密とされた。初夜用教科書の枕絵は、風流な酒席での趣向に、気のきいた進物用品としての需要を持ってきたから、いよいよ贅沢なものにならざるを得なかった。枕絵の構図が浮世絵ばかりでなく、調度品から武士の魂たる刀の鍔にまで応用されたのだから、エロチックな時代だった。(原浩三,1959:98)

吉原炎上 [DVD]

吉原炎上 [DVD]

 この様な社会情勢を重く見た幕府は幾度と無く好色本や枕絵を禁止する命令を出したが、人々の性に対する関心は薄れることなく、むしろ表立って活動できなくなった絵師たちはよりアンダーグラウンドな世界へ浮世絵を進化させていった。おそらくこれが現代性風俗のルーツであろう。その後の社会情勢の変化に対応しながら、人々の性に対する憧れはより現実的なもの、言い換えれば性というものに快楽と安らぎを求める傾向が強くなっていったと思われる*1


まとめ

 これまで見てきたように、現代の性風俗縄文時代から始まった「生殖器信仰」にその起源を持っている。生命の誕生という生物の本能的行動から生じるこの現象に超自然的な力を見出し、信仰対象とした古代日本人は、仏教の伝来と共にその力を神仏によるものとし、さらにこれを仏像という形で表現することでより身近な存在として発展させていった。裸体像の出現は神仏に対する親しみを表現すると同時に、手の届かなかった超自然的な力の象徴を手の届く存在にしたいという人間の願いの表れだったと考えることができる。信仰とともに発展してきた性への意識は、実生活に即した「偃息図」という形で登場する。時には安息の時間を得るためのものとして、また時には性生活の実用書として、その時代の文化を反映し、用途を変えながら進化していった。江戸時代における浮世絵技術の向上と煌びやかな遊里文化の登場によって、浮世絵などを媒介とした性を中心とする文化は一気に開花することになる。幕府の抑圧を受けた性文化は、まるで樽の中で熟成してゆく葡萄酒のようにじっくりと、しかし確実に深みを増し、時代の表舞台に出たり引っ込んだりしながら現代に至る。極端に言えば、「性の俗物化」が着々と進行してきた結果として、現代の性風俗があるのである。


 俗物化の過程に一貫して働くのは人間の持つ「未知への恐怖」であると言えよう。先にも述べたように、生命誕生という現象は古代人にとって超自然的現象であった。そのメカニズムを知ることのできなかった彼らは、それを生み出す生殖器に神性を感じると同時に、多少の恐怖も覚えたはずである。これを克服するための手段として、彼らは宗教を用いたのではないだろうか。宗教という盾を持つことでその未知の現象に原因と理由を求め、知ったかぶりをすることで自身の中にある恐怖心を克服していったのだ*2受胎とそれを導く性交への恐怖が消えると、残るのは快楽を得るための手段としての性行動である。

 科学技術の進歩と共に生物の様々な機構が解明され、子供が「授かる」ものから「つくる」ものへと変化した現代において、もはや性への恐怖心は皆無である。情報化の波に乗った性に関する情報は、江戸時代から顕著になってきた「性の自由化」を煽り、いまや消すことのできない大きな炎となって現代社会を包んでいる。性風俗の流れを見る限り、宗教は専ら手段として扱われ、現代に至ってはその面影を見ることが難しくなっている。私たちの身の回りにはこの様に宗教や信仰に大きく依存して成り立ったものが多くあるのだろう。物事を多くの視点から眺める際、この宗教学的な視点はかなり重要なものであることがわかる。私たちの生活は、宗教と切っても切れない関係にあるのである。

*1:かの有名な宮沢賢治も戦時中の厳しい統制下にも関わらず、ひっそりと春画蒐集を行っていたらしい。

*2:「別にいいよ、おまえらが俺のことを在日ってよびたきゃそう呼べよ。おまえら、俺が恐いんだろ? 名前をつけなきゃ安心できないんだろ? でも、俺は認めねえぞ。俺はな、ライオンみたいなもんだよ。ライオンは自分のことをライオンだなんて思ってねえんだ。おまえらが勝手に名前をつけて、ライオンのことを知った気になってるだけなんだ。」-金城一紀「GO」より